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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第50話

「それでは……第一試合二本目始めっ!」
 審判の開始の声と共に、兄が踏み込む。
 昔何度も組み手をした時と同様に前進する兄の様子を見て、直次は安堵の笑みを浮かべた。
 予想通りだ。
 兄の直次は、常に先手を取る戦い方を好む。世界武者修行の旅に行ったことからもわかるとおり活動的だ。そんな兄なら必ず自ら踏み込んでくる。
 そして、痛めた足ゆえにまともに当て身も投げも使えない。右足を使わない関節技を狙いにくるだろうというのが兄の予想だろう。
(車椅子からベッドへ……ベッドから車椅子へ……車椅子からベッドへ……)
 直次の頭には、古武術ではなく、古武術を使った介護の実践の日々を思いだしていた。介護職員を相手に、数え切れないほど繰り返した。いかにして、相手を軽く持ち上げ、移動させるか。ただそればかりをここのところ毎日考えていた。
 それは捨て身技の応用だった。巴投げのような捨て身技は、自ら倒れるように動くことで、その力を利用し、相手を投げる技である。この身体操法を身につけて、自らの体重をうまく使うことで、腕力や腹筋などを使わずに動かすことが可能となる。難しい技術ではあったが、日常的に一本歯の高下駄で身体の精妙なバランス感覚を身につけ、毎日のようにその技ばかりを実践してきた直次には充分可能だった。
 兄にぎゅっと襟と左袖を掴まれた。凄まじいまでの力と圧力。今度は当て身ではなく、投げで決着をつけようと兄は思ったようだ。また場外に落として、怪我を悪化させてはいけないと考えたらしい。そんなことが一瞬のうちに直次にはわかった。
 掴まれた瞬間、自分の体が、ふらりと後ろに倒れ込むように動いた。
 兄も、上体のバランスが崩れたように動く直次に気づいたはずだが、足の怪我が原因だろうと思ったらしく、まったく無警戒だ。
 そして、直次はそのまま体を後ろに倒すようにして、巴投げの動作に入った。禍を転じて福と為す。
(車椅子からベッドへ……ベッドから車椅子へ……)
 脳裏にはずっと介護の方法が浮かんでいる。自分が奉納武道大会の特設ステージで大勢の観客に見守られながらあの日向直一と対戦しているなどとは思えないほど、穏やかな心境になった。
 ふいに大きくて厚い兄の体が軽くなった。持ち上げるのではなく、「着た」感覚になった。兄の重い体の体重が、直次の動きによって、直次の体全体に分散して、重さが軽く感じられた。昔の人の智恵で米俵を腕の力だけでなく、体全体で持ち上げることで軽々と運ぶのと同じ理屈だ。
 兄の顔に驚愕の表情が浮かぶ。
 そのまま、今度は兄が投げられた。特設ステージに叩きつけられた大きな音が会場に響き渡った。
 会場はまたもや予想外の出来事にしんと静まり返った。
 わああっ! と一呼吸遅れて大歓声が上がる。
 ゆっくりと起き上がる兄の顔には、驚いた表情のままだ。
「……練習をサボってばかりだと聞いていたが、……驚いたな」
「俺自身、正直驚いてるよ。兄貴をこんなに綺麗に投げたのなんて初めてだしな」
「いつのまに巴投げの練習なんかしてたんだ?」
 不思議そうな兄に向かって、「実は古武術じゃなくて介護の練習でやってたんだ」と言ったらどんな顔をするだろうと、直次は思って、微笑んだ。
 互いに一本ずつ取ったことで試合は三本目に突入し、下馬評通り兄が勝利を収めた。
 だが、予想外だったのは、兄弟の熱戦に対する大きな拍手だった。
 始めは寿美花が、やがて悠寿美苑のみんなが、そして最後は会場中から割れんばかりの拍手が、ふたりが完全に観客席から見えなくなるまでずっと続いていた。

 控室に戻ると、寿美花が駆けつけてきていた。
「よかったね、直次くん!」
 まるでトーナメントで優勝したかのような喜びようだった。実際は接戦だったとはいえ、第一試合敗退だ。けれど、そんな直次の表情も明るい。
「ああ、……ほんとうに良かった」
 それ以上何も言えずに黙りこむ。まだ直次の手には兄を投げたあの「着る」感覚が残っていた。
「凄い声援だったでしょう? みんな身長にも体重にも劣る弟の直次くんが、顔をしかめつつ大量の汗をかきながらも接戦を演じたことに興奮してたのよ」
「みんなのおかげさ」
「そんな……直次くんが頑張ったからよ」
 寿美花は湿布を取りだし、直次の足の腫れに貼った。
「いや、本当さ。みんなの応援があって、それにあのホールで実践してた古武術を使った介護の稽古が大きく役に立った。要さんや他の介護職員さんたちにもお礼を言わなきゃな」
 直次はここからは見えない特設ステージのほうを向いた。兄はここの向かい側にある控室に戻っていることだろう。
「兄貴のおかげだ。兄貴相手でなければ、ここまで一生懸命戦えることはなかった。それに足を痛めてなければ巴投げを使おうなんて考えつかなかっただろう。みんなの応援や助けがなければ、この試合に参加することもできなかった。……そして、この試合のおかげで、ひとつ閃いたみたいなんだ……」
「……何を?」
「『日向風姿流介護術』さ――」
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