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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第49話

 直次の前にある特設ステージに、兄はすでに立っていた。
 気負った風もなく、ただいつもの稽古着の姿で、自然体で。
 特設ステージにつけられた階段を上り、直次が上がると、兄はすぐさま片方の眉を上げた。
「直次……おまえ、足を怪我したのか?」
 湿布は剥がしたが、かといって腫れが引いたというわけではない。長い袴で見えにくいが、兄は階段を上る仕草だけで、怪我した足に気づいたらしかった。
「あの声……兄貴にも聞こえるだろ?」
 直次は兄の質問には答えず、視線を神社とは反対側の観客席に向けた。そこには悠寿美苑のみんながいる。「がんばれー!」と力一杯叫ぶ寿美花の声、老人ホームのみんなの声援。寿美花は信じてくれているのだ。例え足を怪我していたとしても、今の直次なら、あの日向直一とだって戦えると。
「俺は、俺に生きる価値なんてないと思ってた。頑張る価値も、存在する価値も。古武術にも俺自身にも……」
 直一は、兄を見つめながら語る。
「でも、そんな俺のことを、寿美花は、悠寿美苑のみんなは、必要としてくれて信じてくれた。――だからっ!」
 直次は叫んだ。
「俺は証明してみせる! 兄貴に勝ってそれを証明してみせるっ!」
 始めは戸惑ったような兄の気配が、濃密なプレッシャーとなって直次に絡みついた。兄の目にはもう怪我をした直次に対する優しさなどない。その目には、一人の男として、目の前の相手を認識した力強い存在感だけがあった。

「コイツぁ……想像以上ぢゃのう」
 寿美花の隣に腰掛けた留吉老人が呟いた。寿美花のもう片方の隣にいる、母の初依もおっとりと同意した。
「ええ、想像よりずっと体格に差があるんですねぇ」
 寿美花たちのいる観客席は、神社と向かい合う位置にある。ステージにいる直次と直一を左右に見ることができ、その両者の身長や胸の厚みなどの違いがつぶさにわかった。
「プロボクシングで言えば、直次の坊主はフライ級といったところか……対して兄のほうはミドル級くらいありそうぢゃ……」
「それってどのくらいの差なの?」
 寿美花が留吉老人に訊ねた。
「ま、十階級差と言ったところぢゃの。フォッフォッフォッ」
 もう笑うしかないという調子で、留吉老人は豪快に笑った。プロボクシングは最も重いヘビー級から一番軽いミニマム級まで十七階級あるが、実際に直次と直一の体重の差はそのくらいはありそうだった。
「で、でも、直次くんは凄いわ! 彼の古武術の技術の凄さは留吉おじいちゃんだって知ってるじゃない!」
「小僧を応援したくなるのはわかるが、寿美花ちゃんは忘れておるぞい? あの兄のほうも日向風姿流古武術を使える。まして師範代ぢゃ。素人相手ならともかく、互いに同じ技術を身につけた者同士で、この体重差と身長差は大きすぎるぢゃろうな」
「……そんな……」
「そして、そんなこと百も承知しておるのが、あの特設ステージにいる直次の小僧ぢゃ。にも関わらず、負けないと目が語っておる」
 そう言われて確かに見つめてみると、直次は足を痛め、怪我しているにも関わらず、まっすぐに自分よりも二回り以上大きな相手を見つめている。
「そうよね……直次くんなら……!」
 寿美花がそう口にした瞬間、審判が動き、
「それでは第一試合三本勝負一本目……始めっ!」
 と言う声が響き渡った。

 勝負は一瞬だった。
 観客席はそのあまりのあっけなさに静まり返った。
 浅黒く大きな体をした袴姿の男が間合いを詰めて、日向風姿流古武術では当て身と呼ばれる打撃技を繰り出すと、その前にひとたまりもなく、相手が場外にまで吹っ飛んだのだ。さながら車に轢かれた人間のような圧倒的な破壊力だった。
 秒殺。
 いくら足の踏ん張りが利かない、フットワークが使えないとはいえ、無慈悲なまでの差だった。
 会場に一本目を華麗に奪った側の声が響いた。
「直次、お前の気迫はわかった。だが、気合いだけでどうこうならないのも勝負の世界だ。やはりその足では無理だ。棄権しろ!」
「……いやだ」
 直次は場外に落ちていたが、階段を上りステージに上がろうとする。階段を一段進むごとに顔をしかめた。
「俺は……まだ戦える」
 痛みを堪える余裕も失った歪んだ表情だったが、その目には闘志が宿っていた。
「これは兄として頼んでいるんじゃない! 日向風姿流古武術の師範代、日向直一として命じているんだ。……棄権しろ!」
 兄としての提案ではなく、師範代としての命令だと直一は宣言した。

 特設ステージに、直次が戻ると、審判は兄弟の会話を聞きつけて直次に質問した。
「棄権するか?」
「しませんっ!」
 はっきりとそう口にする直次。そんな彼を直一が叱りつけた。
「馬鹿野郎! さっさと棄権しろっ!」
「嫌だ……」
 直次は構えた。その体は怪我のためか微妙にふらついている。
 それを見て、直一はため息を吐いた。審判を見て、
「始めて下さい。次の一本で終わらせますから」
 三本勝負とはいえ、ストレートで二本取られればそこで試合終了だった。先ほどのように数秒で勝負を決して、直次を医務室に連れて行くつもりなのだろう。
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