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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第48話

 好地山涼子が電話をかけると、相手はすぐに出た。
「コーミングとブラッシングの違いはわかるか?」
「い……いえ、存じ上げておりません」
 好地山涼子は丁寧な言葉遣いで、濁声の男がした唐突な質問に返事した。上司の大具池は時々脈絡のない話をする。猫の鳴き声が受話器の向こうの音に混じった。
「コーミングは櫛を使った毛の手入れのことで、ブラッシングはブラシを使って血行をよくして抜け毛を防ぐのが目的だ。ペルシャ猫はエレガントな長い毛のゴージャスさがいいが、その長く密集した毛の手入れは大変でな、毎日してやる必要があるんだ」
「さようですか」
「で、どうだ、例の古武術道場の土地の件は?」
 大具池は何気ない調子で訊ねてくる。それは、どうでもいい猫の毛の手入れの話から入ったことからもわかるように、いくつも抱えている仕事のひとつくらいしか、道場の土地の一件を捉えていないことを、好地山涼子に感じさせた。
「順調です」
「奉納試合の様子はどうだ? ……まさか兄弟熱戦で、門下生を一気に獲得……なんて奇跡は起きないだろうな?」
「問題ありません。……それどころか、弟の直次のほうは足を怪我しています。勝負内容どころかそもそも試合自体が流れる可能性もあります」
「ほう、――で、その根性なしで有名な古武術道場の次男はどうだ? その坊やは棄権しそうか?」
「以前なら……」
 好地山涼子はつぶやいた。その脳裏に、あの初めて会った時とは違う、強い意志を感じさせる直次の瞳が浮かんだ。
「何? よく聞き取れなかったんだが……奉納試合は思ったより観客が集まっているようだな、うるさくてかなわんな。――で、どうなんだ?」
「以前の彼ならおそらく諦めたでしょう……いえ、そもそもあの優秀な兄と戦うなど思いもよらなかったと思います。けど、出場するつもりのようです。確認してきました」
「なるほど。……まあ、怪我をしたのが兄のほうなら、いい勝負になったかもしれんが、ただでさえ弱い弟が足を怪我したとなれば勝負にはならんだろうな」
「はい。門下生獲得など夢のまた夢でしょう……。そもそも奉納試合でいい試合をして門下生を獲得しようなど、現実には不可能です」
「そのとおり。……現実ってやつは甘くない。決してな……ククク。――では、手はず通りやれよ?」
「……はい」
 好地山涼子の返事は、ほんの一瞬だったが、遅れた。それに気づいた様子もなく、大具池は言った。
「不幸ってのは、なんでまとめてやって来るか知ってるか?」
「なぜでしょう?」
「落ち目の奴からはな、はぎ取りやすいから、他人を食いものにする連中が爪を研いで待っているからさ……。兄弟仲良く挫折して、母の夢破れたら、さっさと買い叩けよ。散々待たされた分、条件は引き下げてやればいい。……どうせ、道場の存続などもうない。二束三文で買い叩け。つけ込め」
「…………」
「どうした、返事は? ――でないと、例の約束を取り消すぞ?」
「……はい。わかりました。やります」
「時代はぼったくりバーからぼったくり老人ホームに変わった。おまえもゴージャスな生活を送りたいんだろう? おまえやおまえのじいさんに白い目を向けていた連中を見返してやれ。両親に捨てられてたおまえを育てたじいさんに孝行しろ。ゴージャスになってよう」
「はい。心得ております。……では、失礼致します」
 ケータイを切ると、好地山涼子は大きくため息をついた。思わずぐったりとした。手の甲で額を押さえる。
 頑張るようになった直次の瞳をまた思い出した。自分が酷く薄汚れてしまったような気がした。

「直次くんの第一試合の相手は直一さんなのっ? そんな……っ!」
 奉納武道大会実行委員会の委員が、控室にいた直次に対戦相手を伝えた時、一緒にいた寿美花はその対戦相手に驚いて声を上げた。
 初戦で同じ日向風姿流古武術の人間同士が当たる。なにやら多少作為的な気がしないでもなかったが、「もう決まったことです。すぐに試合会場脇までお願いします」と命令されては、拒否する権利などない。
「直次くん……」
「運もここまでついてないと笑うしかないな」
 直次は、足の痛みを堪えて立ち上がり、笑みを浮かべた。この控室のテントを出れば、観客席からもよく見えるようになる。当然悠寿美苑のみんなにも。怪我を悟らせないために、笑みを浮かべ続けるつもりなのが、寿美花にもよくわかった。
「……が、頑張って」
 震える声で、寿美花は両手を握りしめて言った。
「まるで寿美花が試合に出るみたいじゃないか」
 と直次はからかうが、その額にはもうすでに脂汗が浮かんでいる。緊張と痛みのためだろう。本来なら万全の体調であったとしても、あの日向直一と大勢の前で試合するなど、恐怖の極みと言えたに違いない。それをこのような逆境で行うことになったのだ。
 直次がテントを出る背中を、寿美花は見送る。彼は横を向いて、軽く悠寿美苑のみんなのほうを向いて笑顔で手を振った。
 その声援に応える時だけ笑顔で、ときおり顔をうつむかせて、しかめた表情をするのを見て、寿美花の胸に痛みが走る。
 優勝どころか、初戦で敗れかねない。いや、それどころか、まともに試合になるかどうかさえ怪しい。
 寿美花の額にまで汗が浮かぶ。彼女はみんなのいる観客席に向かった。
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