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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第45話

 寿美花はシーツを干そうとしていた手を止めて、直次の話を聞いている。
「でも、昔の感覚ならそう珍しいことでもないんだ。例えば三男二女の末っ子で『五』という文字が入っている人だっている。当時は生まれた順に数字を入れたりするのは今以上に当たり前でごく普通だった。母もその昔の感覚で名づけたに過ぎないと薄々はわかってたんだ」
「別に悪い意味でつけたんじゃなかったということね?」
「ああ、そういうこと。そして、『直』という字にも意味がある」
「意味?」
「そう。……『直』の一字は、母が古武術の現状をより良くする、立て直すという意気込みから付けたものなんだ。母の古武術に対する思い入れの深さがわかる名前だ。でも、古武術が現代には不要な技術だと思っていた俺には、その名前は重荷だった」
「……今は……どうなの?」
「今は……」
 直次は空を見上げた。風はあるが、雲はなく、ただ青いだけの空が広がっている。
「気に入り始めたというか……受け入れることができたというか……」
「そっか……」
 寿美花が直次にそっと近づいた。
「ありがとう、直次くん。話してくれて……」
「こっちこそ、……聞いてくれてありがとう」
 見つめ合ったふたりは微笑みかわした。そっとお互いの顔が近づく。重なる瞬間、一際強い風が吹いて、シーツを舞い上がらせて、ふたりの姿を世界から隠した。

 直次の行う古武術の視点を取り入れた、移乗介助のアドバイスを受けたがる介護職員は日に日に増えていった。直次には介護の経験がなく、介護職員には古武術の知識がない。互いに足りないものを補い合いながら、一歩一歩進んでいった。
 わずかずつではあったが、それが介護職員たちが腰痛などになりにくい環境作りに貢献し始めていた。
「面白いことやってるわね!」
 直次が介護職員相手に実践した技術を見様見真似で試している介護職員たちを、ホールの端で直次と寿美花が見ていると、ふいにホールの出入口から声がかかった。
「要さん!」
 真っ先にやって来た人物に気づいた寿美花が嬉しそうに声を上げた。大喜びで要のもとに駆けだす寿美花。直次もその後に続いた。
「実はまだ現場復帰できるわけじゃないけど、やっとなんとか渋々ながら夫と息子の承諾が得られそうなの。……心配させてごめんね」
「ううん……要さんが戻ってきて下さるなら、それで充分です。待ってますから」
「ええ。任せておいて……それにしても……」
 要は、変わった格好で移乗介助の訓練をしている介護職員たちを見つめて首を傾げた。
「施設長から聞いてはいたけど、こうして見ると本当に変わってるわね」
 今は、ホールにベッドと車椅子を用意して、移乗介助の稽古を行っていた。その動きはベテランの要には違和感を与えるのに相応しいものだった。
「これってどういう原理なの? けっこうみんな軽々と持ち上げているみたいだけど」
 持ち上げられているのも、むろん、全員が介護職員たちである。まだまだ実際に高齢者に使うには早すぎる段階だ。
 直次が説明した。
「一応、古武術と介護の技術を合わせて考えています。まだまだ研究段階ですけど、ようは、捨て身技の応用です」
「捨て身技?」
 聞き慣れない言葉に要が首を傾げる。介護のことならわからないことなどあまりないベテランだが、古武術や格闘技については知らないらしい。
「巴投げとかが有名ですね」
「巴投げって、こうして、てぇやー、って仰向けに真後ろに投げるやつよね?」
 片足を上げて、後ろに転ぶ仕草のようなものをする。
「そうです。普通の介護の技術ではあまり使わない、自分自身の体重や重力を使って、腕や腰などの一部分だけで持ち上げる感覚ではなくて、全身で移乗させる感じなんです。一本歯の高下駄で立ったり歩いたりする、体幹部でバランスを取る技術と同じものがあるのが理想ですから、慣れないと多少難しいと思いますが」
 口で言われてもいまいちよくわからない様子の要だったが、実際に介護職員を相手に何度か実践してみて、顔を紅潮させて言った。
「いいじゃない! これ、すごくいいわよ! ……ただ、まだまだ不安定な感じがぬぐえないわね」
「はい、まだまだ研究が必要ですけど」
「うん。でも、確かにこれがうまく行くようになれば、わたしも腰痛になったりせずに済みそうね」
 ベテランの介護職員からそう太鼓判を押されて、寿美花は嬉しそうに直次に笑いかけた。直次も照れたように微笑んだ。

 浮ついていたのだろう。初めて人の役に立っているという実感。古武術を指導し、介護の技術を研究するたびに、介護職員たちから聞こえてくる称賛の声。あの事務長や施設長さえも見学に来て、褒めてくれた。自分は生きていていいのだ。俺は必要とされているんだ。そういう思いが、初めて湧いた。そのうえ寿美花とキスした後で舞い上がっていたのだろう。
 事件が起きた。
 小さな、それでいて、奉納武道大会を前日に控えたタイミングとしては、最悪といっていい事件。
「直次くんっ! 佐藤おばあちゃんっ!」
 寿美花の悲鳴が二階から降ってくる。少し遅れて、老女の乗っていた車椅子が、二階と一階の間にある踊り場の床に叩きつけられる身の毛のよだつ音がした。
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