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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第44話

 日向風姿流古武術道場の出場枠をひとつに減らしてくれないか? と近所の神社の奉納武道大会実行委員会の委員から連絡があったと、母から聞いたのはその晩のことだった。門下生はたったふたりの弱小道場から出場者を二名も出すのなら、うちはもっとたくさん出したいというっところがあったという。むろん、この提案を受け入れるなら、奉納試合の出場者は実力的にも地位的にも兄に決定だった。直次は出場できないことになる。
 母はそれを理解して返事を渋った結果、翌日、わざわざ実行委員が直次のいる悠寿美苑まで訊ねてきた。
 その話のいきさつを聞いて、玄関前で、直次は悲しそうな顔をして立っていた。兄と戦って負けるどころか、戦うことさえできなくなる。やはり自分と兄との差というのは、それほどのものなのだという辛さだった。実行委員も、そんな直次の様子を見て困った感じで立ち尽くしていた。
 そんな時、杖をついている老婦人が、ゆっくりとおぼつかない足取りで近づいて来た。悠寿美苑で見かけたことはないので、利用者の家族なのだろう。特養は自宅での介護が不可能なくらい難しい場合に利用される。この老婦人では、とても障害のある夫の介護は無理だ。
「少し小耳に挟んだのですけれど……」
 と丁寧ながら毅然とした声で、
「そちらの日向直次さんが、近々行われる奉納試合に出場できなくなるって本当?」
「え……ええ、そうですが……」
 実行委員は突然話に割り込んできた老婦人に困惑した様子で見つめた。
「あの……俺のこと知ってるんですか?」
「ええ、クリスマス会でお見かけしましたし、それに主人がよく話して下さっていたから。主人は寡黙で、めったに人を褒めることのない人でしたが、日向さんのことは褒めていましたよ」
 「褒めていた」と過去形で、老婦人は寂しげな表情で語った。高齢者の多い老人ホームとはいえ、直次と面識があって亡くなった利用者といえばひとりしかいない。
「もしかして……伊藤さんの奥さまですか?」
「ええ……そうです。――さあ、それよりこういうことは少しでも早いほうがいいでしょう。あなたは、実行委員の方ですよね?」
 伊藤夫人は実行委員を見つめ、
「実行委員長に繋いで下さらない?」
 実行委員は有無を言わせぬ老婦人の貫禄に押されて、素直にケータイを取りだして電話をかけ始めた。
 そんな様子を見つめながら、伊藤夫人は直次に言った。
「あの神社ならよく知っているし、ちょっと顔がきくから、一言言ってみますね」
「は……はい。ありがとうございます」
 実行委員からケータイを渡されると、実行委員長と伊藤夫人は、二言三言話した。伊藤夫人は「出場枠の削減の提案はもっともだと思うけれど、もうすでに一度決めたのならそれを実行するのは来年にすべきではないかしら? それが道理というものでしょう?」と優しい声で厳しくたしなめた。しばらくして、実行委員に電話を代わり、電話を終えた実行委員に確認すると、日向風姿流古武術道場の出場枠は予定通り二枠で問題ありませんと言って、ほっとした様子で帰っていった。
 そんな男の背中を見送る直次に、伊藤夫人が、ちょっとおちゃめな感じで囁いた。
「長く生きているとね、意外と顔がきいたりするようになるものよ……」
「顔がきくって例えば?」
「そうねぇ……あの実行委員長がまだ小さくて鼻水を垂らしていた頃からよく知っているし、長年この土地に住んでいるからあの神社の神主さんとも長い付き合いだわ」
 最後に伊藤老人は悠寿美苑の建物に向かって、深く頭を下げた。顔を上げると、直次に言った。
「主人を世話してくれた、この老人ホームに心から感謝しているわ。自分はご覧の通りもう年で体が弱くてね、自分のことで精一杯……。主人は快適に暮らせたと言っていたわ」

 いろいろな人の応援や手助けがあって、直次は奉納試合に向けて前向きに戦う決意をすることができた。早朝からトレーニングを開始し、昼間は介護職員たちを相手に古武術を使った介護の仕方を実験したり、研究したりした。電話で兄が、
「道場の経営が非常に危うい。正直、門下生が今さらひとりふたり増えたところでどうしようもないだろう。だが、それでも奉納試合でいい試合をすれば、門下生が増えて事態を打開できるかもしれない」
 前向きで前進ばかりする兄らしい台詞を言った時にも、直次は素直にうなずき、同意することができた。
 ある天気のいい日に、白いシーツを寿美花とふたりで干している時、直次の名前の由来の話になった。以前なら適当にかわしたであろうその話題に、直次はきちんと答えた。
「おそらく寿美花も気づいていると思うけど、俺の直次という名前は、古武術に関係のある名前なんだ」
 青空から降り注ぐ眩しい陽射しが、干したシーツに反射するようで、とてもまばゆい。それに目を細めるようにして、直次は語る。
「そのうえ、兄は直一、『一』だ。それに対して、俺は直次。『次』だ。なんとなくその兄の次、二番というイメージが気に入らなかった」
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