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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第42話

 将棋に敗北したことで解放された直次は、忙しい人に代わって、買い物を手伝ったりした。だがしかし、摂取したカロリーにまったく運動が足りていない。散歩がてら出かけた買い物で、ゲップが出て、その息さえも甘いシナモンの香りがするほどだった。
 なんとなく誰もいないバルコニーで古武術の型の稽古を静かにしていた。普段なら母に言われても拒否して逃げ出すところだが、今は何でもいいから体を動かしたい気分だった。少なくとも夕飯のカレーを大盛り一杯食べられる程度には腹を空かせないと申し訳がない……。
 そんなこんなで熱心に型の稽古をしていると、いつのまにか寿美花と休憩時間らしい介護職員数名が見ていた。
「直次くん、お疲れさま」
 いつのまにか少し汗をかいていた直次に向かって、寿美花がタオルを手渡してくれた。
「ありがとう」
「やっぱ凄いね、古武術って」
「そうかな?」
 半信半疑といった様子の直次に向かって、介護職員たちが口々に褒めた。世代も性別もバラバラだったが、皆一様に凄いと言っている。
「一本歯の高下駄だって凄かったじゃない」
 と寿美花は言って、どういうことがあったのか、そばいる介護職員たちに説明した。
「幼い頃から鍛えてきたバランス感覚や、肉体の智恵……とでもいうのかな? そういうのが凄いと思うわ」
 いつのまにか直次は、休憩時間中の介護職員たちに、型を見せたり、型を真似する介護職員たちに手取り足取り教えたりした。あっというまに短い休憩時間は過ぎた。
 物珍しかったのかな、という程度の認識しか直次にはもたらさなかった。
 この行動が萌芽となって、大きな花を咲かせるとは誰も予想できなかった。

「……そうですわ。冬休み期間中、悠寿美苑でしばらくボランティアをして下さるそうです。うちに泊まっていますので、寝るところも食事も、何も心配はいりません。本当なら伺うべきところなのですが、今、わたしは過労のために仕事を休んでいる状態ですし、正直、老人ホームが人手不足でごたついておりまして、あまり離れたくないんですの」
 西園寺初依は、日向栄に電話していた。寿美花の母と直次の母が会話をするのはこれが初めてで、およそ対照的な外見と性格をしていたが、話は意外と合った。
「構いません。むしろ、こちらこそ息子を預かって頂いてありがとうございます」
 男性的なさばさばした口調で栄が言い、
「ただひとつだけ言伝をお願いできますか?」
「はい、なんでしょう」
 改まった口調に西園寺初依の背筋がぴんと伸びる。そんな姿さえどこか子供っぽい。
「奉納試合があるとお伝え下さい」
「ほうのう……試合?」
「近所の神社で冬に行われる奉納武道大会のことです。奉納試合と言えば、直次ならすぐにわかるでしょう。昨日、奉納武道大会実行委員会の委員長から打診があったのです。日向風姿流古武術も出てみないか? と。それでわたしは二つ返事で了解しました。そのことを伝えてほしいのです」
「わかりましたわ。必ずお伝え致します」
 西園寺寿美花は、相手に見えないだろうに、深く頷いた。電話の向こうが黙ったまま、しばらく沈黙が続いた。
「あの……まだ何かあるのでしょうか?」
「……いえ……ただ直次が家を飛び出したことが初めてだったもので……」
「まぁ……そうですの。寿美花は、小さい頃たまに家を飛び出すことがありましたわ」
「え……お嬢さまとお聞きしていましたが?」
「はい、娘ですの。けれど、寿美花はたまにわたしと喧嘩すると、悠寿美苑……老人ホームに転がり込むことがあったんです」
「なるほど。……どこででもそういうことはあるのですね。……わたしは自分に天分があり、運もあったにも関わらず、性別だけが古武術の師範となるのに問題でした。その性別というただ一点のために誹謗中傷をずいぶん受けました。……どうもその反動で厳しく兄弟を躾けすぎたようなのです。兄のほうが優秀だったため、弟も厳しく躾ければどうにかなるだろうと、高を括っていたのかもしれません。――あ、いや……申し訳ない。こんな話をするつもりではなかったのですが……」
 堅苦しい口調に、乱れが生じた。
「いえいえ。お互い様です。こうして子供同士が知り合ったのですし、同じ親同士、親睦を深めるというのもいいですわ」
 おっとりと西園寺初依が提案する。
「そうしたら是非、美味しいお菓子をご馳走いたしますわ」

 直次は毎日、寿美花と一緒に悠寿美苑でボランティアに精を出していた。
 よく働くと評判になっていたが、何よりも彼の日向風姿流古武術が話題になっていた。
 何かの用事を言いつけられて悠寿美苑の廊下を歩いていると、介護職員によく声をかけられるようになった。今日の稽古は何時からですか? とかいった質問だ。始めのうちは狭いバルコニーで行っていたのだが、すぐにいっぱいになったので、今は普段は使用されていないホールを利用させてもらっている。
「直次くんの古武術の稽古って評判よ?」
 ボランティアでたいてい一緒になる寿美花は、仲の良い職員から聞いてきた話を、直次にしてくれた。その日は、スーパーの特売日にふたりで買い出しを行っていた。
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