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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第22話

「それは逆でしょ?」
 好地山涼子が嫌みな口調で返す。舌で唇を舐める様子など、まさに肉食獣が草食獣に襲いかかろうとする時の仕草のようですらあった。
「年齢に関係なく転職ができる。言い換えれば、それだけ他の業界に比べて、激務で、人手不足だという証明じゃない」
 黙りこむ寿美花に向かってさらに追い打ちをかける。
「それに給料は、三十代後半だろうと、さっき言った程度よ? はたしてそれを自慢げに施設長のお嬢さまがおっしゃることかしら?」
 見事なまでの嫌みな口調だった。反論できず、唇をかみしめて、顔を青白くしている寿美花に向かって、容赦なく好地山涼子は話を続ける。いや、むしろ、直次の説得の邪魔をしに、しゃしゃり出てきた寿美花を完膚無きまでに打ちのめすのがたまらなく楽しいといった風情だ。
「年度によって違うけれど、介護業界への入職者は二十数万人いるけれど、離職者は二十万人くらいいるわ。そのうち介護業界に転職する者は十万人くらいだけ。要するに、介護分野の離職者のうち二人に一人くらいは他の産業へ流れていく。これこそが、現状でしょう? それをあたかも、他産業から転職して来やすい優しい業界のように言うなんておかしいじゃない」
 直次はそこまで話を聞いて、半分ほどしか理解できなかったが、浮かんだ考えを口にした。
「だったらさ、介護職員の給料を二倍にでも三倍にでもしたらいいじゃないか。それだけ大変な労働をしているのに、給料が不足していると感じる人がいるってことなんだからさ」
「アハハハハ! そりゃいい! それはいいわね!」
 好地山涼子は、手を打って馬鹿笑いした。
 その癇に障る笑いによって、青白くなっていた寿美花の顔は、羞恥でにわかに赤くなった。
「そんなことできるわけないでしょっ!」
 寿美花は、隣に立つ直次に向かって怒鳴った。
「なっ! なんでだよっ?」
 直次も言い返した。
 寿美花も直次も、好地山涼子によって、精神の安定を欠いていた。普段ならこの程度のことで、怒鳴ったりはしなかっただろう。
「そんなことが可能ならとっくにやってるわ! お金があれば、人手があれば、時間があれば、確かになんだって可能かもしれない。でも、いま、わたしたちは自分の手元にあるものだけで、乗り切らなきゃならないの!」
「でも、実際に激務で薄給だっていうなら、給料を増やすなり、人を増やしてひとり当たりの仕事を減らすなりするのが当然じゃないか?」
「稽古をサボったりするあなたじゃわからないかもしれないけど、やれる範囲で努力するしかないことだってあるのっ! この古武術道場だって大変な状況だけど、あなたのお母さんもお兄さんも、やれる範囲で全力で努力しているはずでしょ? そうでしょ?」
 直次にとって、兄である直一の話題は禁句だった。
 はっきりと直次の顔色が変わるのを見て、寿美花は自分が言いすぎたこと、余計なことを言ってしまったことに気づいた。
 好地山涼子は、あれほど滔々とさまざまなことを語っていた癖に、ふたりが喧嘩を始めると、少し身を引くようにして、傍観者に徹した。その目は、ニタニタと笑っている。声には出さない。
 ふたりの口論は激しくなる一方で、日本語が達者とは言い難いアビゲイルにはどうすることもできなかった。
 三十分以上も言い争った後、珍しく怒りに顔を赤くした寿美花は、古武術道場を乱暴な足取りで後にした。それを見送った後、好地山涼子も嫌らしい笑みを浮かべて静かに去っていった。
 直次の心は、好地山涼子の嫌みと、寿美花との思いがけない喧嘩とで、ぎすぎすと軋むようであった。アビゲイルもバイトに出かけてしまい、ひとりになって、がらんとした道場にたたずんでいると、まるで自分はすべてから見放されて、ただひとりでこの世界にいるような孤独感に襲われた。

 あれから二日経った。寿美花と喧嘩した時のこと、彼女と出会った時のこと、クリスマス会の日に偶然抱き合ったことなどが、とりとめもなく直次の脳裏にたびたび浮かんだ。このまま寿美花との縁は切れ、喧嘩別れしたまま終わるのだろうか。そう思って時折沈んでいたが、幸運はやって来た。
 その日は、冬にしてはいい陽気で、久しぶりにサボる口実ではなく、本気でランニングしてみようと思っていた。いつもの柔道着に袴、一本歯の高下駄の出で立ちだ。
 一本歯の高下駄は、平地を走るよりも、坂道を移動するほうが難しい。特に降りは相当の難易度だった。
 直次は、その稽古のために坂道のあるコースを考え、丘にある霊園に向かうことにした。ちょうどいいくらいの坂がたくさんあるのだ。
 直次は、その霊園の中で、なんとなくどこかで会った気がする老人ふたりを見かけた。それぞれ背後から車椅子を押してもらっている。ひとりは半白の髪を後ろに撫でつけて、しゃれた鮮やかな色の上着を羽織っている。もうひとりは眼鏡をかけた地味な服装をした老人で、時折デジカメのシャッターを切っている。近づいて見ると、それはあの悠寿美苑で手品を披露した留吉老人と、その友人の伊藤老人だった。
「こんにちは、留吉おじいさん、伊藤おじいさん。クリスマス会では楽しませて頂き、ありがとうございました」
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