誓い
「キャップ!俺、キャップのこと、……ずっと、好きでした……!」
眼前で頭を下げる後輩に、御幸は軽く目を見開けた。
それは、ある夜の風呂上りのこと。
御幸は髪の毛を乾かし終え、部屋でスコアブックを広げようと椅子に座りかけたとき。突然部屋に沢村が訪ねてきて、外に連れ出されたのである。
そして、沢村が足を止めた場所は、御幸が偶に「チャージ」という名目で、沢村を抱きしめていた、室内練習場の裏手だった。
あれから、大体月に2度の頻度で沢村を呼び出し、この裏手で彼を抱きしめていた。
そんなときに、彼からのこの言葉である。
御幸は思わず、思考が止まりそうになる。
しかし、寸でのところで、思い出したのだ。今日が、何の日かということを。
今日は、年に一度の、エイプリルフールである。
「――さ……」
御幸は、彼の名前を呼ぼうと声を出すが、うまく喉を通ってこず、ごくりと、唾を飲み込んだ。そして、数秒後、御幸は自分の答えを口にした。
「――じゃぁ、付き合う?」
御幸の渾身の返答に、どうやら「バカ」と愛称の付く後輩は、上手く反応してくれた。
「……え、……あ!?」
腰から90度曲げていた上半身を、勢いよく起こす沢村に、御幸は咄嗟に、自分の表情に変化を与えた。顔を傾け、右の眉尻を少し上げて口元に笑みを浮かべる。
こちらが優勢であるという余裕の印象を、沢村に向けた。
沢村は、この反応を予想していなかったのか、愕然とした様子だった。
大方、倉持あたりに悪知恵を吹き込まれたのだろう。
ありえない。野球に夢中の彼が、そんな想いを抱くなんて。
選抜試合に敗退した直後だというのに、恋愛だの、ましてや自分を本気で好きだなんて、血迷うはずがない。
御幸は鼻で笑い、歯を見せた。
「バーカ、エイプリルフールだよ、バカ」
「2回もバカ言うなー!!」
先輩に恥をかかせるつもりが、思いきり反撃されて、顔を真っ赤にする沢村に、御幸は声を上げた。
「まじおま、バカ…!」
腹を抱えて笑い転げると、沢村はいつもの調子で猫目になり、踵を返して、その場を去ろうとする。
御幸は慌ててその腕を掴み、彼の足を強制的に止めた。
「離せー!!」
「ちょっと待て、バカ」
倉持に報告に行くのだろう。そして、倉持からも笑われ、彼は一層、頬を膨らせるのだろう。
想像するだけで、「かわいいな」と思う。
初めてチャージをしてもらった日から、御幸の心は、前に進んでいた。
神宮大会を終わらせ、地獄の冬を越し、オフの期間を存分に野球に打ち込ませたが、定期的に、この後輩の温もりが恋しくなってしまう。特に、正月で実家に帰り、互いに離れたときは、おもわず沢村に連絡を取ってしまった。普段、近くにいるのに、いないのは不思議な感覚だった。
その時だった。ずっと自分の胸で、雲のように彷徨っていた、ある感情が、不意に文字になって形を成した。
自分が、沢村を、どうしようもない感情で特別視していることに、気が付いてしまったのだ。
地団太を踏む彼を、力のままに、引き寄せる。
「沢村」
「わっ!?」
そのまま、沢村を抱きしめた。
「キャップ!離せー!この姑息女房めー!」
耳元で騒ぐ沢村の声が、煩い。でも、それがいい。
「ちょっと黙れ」
試しに少し低めに声を出すと、沢村はその声に、やっと落ち着いた。
「キャップ?」
この体温から、自分の想いが、伝わればいいのに、何も伝わらない。それがもどかしくて、御幸は自分の腕に、力を込めた。
「――まぁ、伝わっても、困るけど」
ほんの小さく口の中で呟くと、沢村は「え?」と反応したが、御幸はそれ以上、何も言わなかった。
何を思ったのか、沢村も御幸の背中に軽く腕を回し、無言で抱きしめ返す。
静かな、春の夜風が吹き抜けた。
御幸は、彼の腕の温もりを、正面から伝わってくる、彼自身の温もりを、目を閉じて感じる。
そして、誓うのだ。
「……ありがとな ―― 」
―― これで、最後だ ――
どうやって、部屋についたのか、記憶がない。
5号室、室内の扉前で立ち尽くしていると、倉持の声が、正面から耳に入ってきた。
「おい沢村、どうだったって聞いてんだよ」
その声に、沢村は弾かれたように倉持に焦点を当てると、彼は怪訝な表情でこちらを見ていた。
「ん?どうした」
「あ、いや」
そうだ、自分に、エイプリルフールの入れ知恵をしてきたのは、この人だ。
沢村は朝から、同級生たちにエイプリルフールを試していたのだが、誰も引っかかってくれなかった。風呂の準備をしながら、もう1日が過ぎてしまうと焦っていた時に、倉持が声をかけてきたのだ。「ひとり、騙せる奴がいるよ」と。
その騙す相手は、御幸だと言う。倉持は続けて、「いいか。俺、ずっとあんたのことが好きでした。って言えば、それでアイツ騙せるから」と、説明した。
何を言い出すのか、沢村は反論したが、「いいから、どっかで呼び出して言ってみろ」と、いつもの笑い声で入れ知恵したのである。
「いや、それがね!仕返しされたんすよ!」
沢村は怒った素振りで、ベッドに座り、事情を話した。もちろん、すべてを報告したわけではなく、抱きしめられたところは、割愛している。
御幸に初めてハグされて以降、「チャージ」というイベントを、何故だか誰にも言ってはいけない気がしていた。同室の先輩、倉持にでさえ。
いや、言いたくない、という気持ちもあった。
キャップの弱いところを知っているのは、自分だけだという、特別感を味わいたかったのかもしれない。
でも、今夜の御幸の調子は、いつもと少し違った。それが何故なのか、倉持に話したくても、今までのことを言っていないのだから、相談の仕様もない。
倉持は、沢村が御幸にされたエイプリルフール返しに、一瞬、どこか浮かない表情を見せたが、すぐに大声で笑い飛ばし、またゲームに向き直った。
2人でひと通り騒ぎ終えた後、互いに電気を消して布団に潜り込む。
沢村はまた呆然と、先ほど起きたことを思い出していた。
何故だかわからないが、少し寂しいように聞こえた、先輩の「ありがとう」が、どうも引っかかる。
「まぁ、いいか。寝よ」
明日も、その次の日も、いつも朝は早い。野球以外で考え事する暇など、無いのだ。
いつか、いつかは分からないけど、この変な気持ちと、決着を付けられる日が来るだろう。
沢村は、そう自分に言い聞かせ、目を閉じた。
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