ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

スイと狼殿

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: そばかす
目次

第5話

 黒い巨大な狼の耳がふいにぴくりと動いた。
《…………ナハト》
 黒い巨大な狼は自分の名前を呼ぶ声に気づいた。聞き慣れた声。自分が追っている敵の声だ。黒い超巨大な獅子ザッパーの声。ザッパーは巨大な黒い狼ナハトの二倍はある超巨大な獅子だ。
《……ナハト……》
 なおも声はナハトを呼んでいる。
 ナハトはゆっくりと背中の少女スイを起こさないように立ち上がる。そっと背中を傾けて、ゆるい傾斜をつけて、少女スイをベッドに下ろした。
 スイはまだ熟睡している。よほどきょうは疲れたのだろう。笑って怒って走り回って、ふだん考えたこともないことを考えて、緊張の連続だったのだ。
 しばらく紅い瞳でスイを見ていた。
 黒い巨大な狼ナハトの口元が切れ上がった。狼と人の口では、同じ口元が切れ上がるといっても全然違う。そもそもその切れ上がった口の隙間から巨大な牙がのぞいているのだ。きっとこれを見たらどんな人間も失神するか逃げだすだろう。けど、黒い巨大な狼は、たった二人だけだが、きっと逃げださないだろうという人間を知っていた。
 黒い巨大な狼はニッと笑ったのだ。
 黒い巨大な狼ナハトは笑みを消すと、慎重に音をさせないように鼻先で戸を開けて、外に出た。
 不自然なほど霧が立ち籠めていた。それもかなり濃くて広範囲に出ているらしい。少なくともパルス村と近くの森は濃霧につつまれていた。
 ナハトは二三度鼻を鳴らして臭いを嗅いだ。ザッパーの臭いを追う。この臭いは鼻で感じる臭いというよりも第六感に近いものだった。
(……やはりおかしいな)
 この追っ手を追い続けてたびたび浮かんでいた疑問がまた浮かぶ。ザッパーは強大な力を持つ敵ではあるが、このように霧を操る能力があるなどとは聞いたことがない。
(俺様のように万能に魔法が使えるわけもないしな。やはり相当腕の立つ協力者がいるか……)
 慎重に森に踏み入る。
 警戒しているのは、霧を出すなどという魔法はよほど多彩な魔法を習得した魔物しか使えない魔法だからだ。ふつう魔物たちはもっと直接的で攻撃的な魔法を好み、習得する。余力があれば、こういった小技のような魔法も覚えるが、ふつうそんなことはしない。
(よほどの強敵か、あるいは……)
 その先は考えないことにした。
 仮に後者の打ち消した考えが当たっていれば、これは本当に聖歴が終わる大事件につながる可能性がある。しかも次に始まるのは魔歴でさえないかもしれない。そんなとんでもない事態を想定した話になる。そんな途方もないことはナハトも考えたくなかった。
 森に入るとザッパーの臭いが濃くなった。間違いなく、ここにいる。
 昼間はあれほど美しい木漏れ日の差す森が、夜、濃霧に包まれると全く別の森に見えた。
 ナハトは悠然と歩みを進めているが、実際は余裕などなかった。下手をすれば死ぬ危険もある。それでも村を出てきたのは人間に迷惑をかけないためだ。
 勝敗を大きく左右する魔力。それがほとんど回復していない。
 ナハトの毛はぐっしょりと濡れていたが、それは何も濃霧ばかりのせいではない。汗が噴き出している。
 実はナハトには切り札があった。しかし、使うわけにはいかない。破壊力がありすぎてパルス村まで巻き込みかねないのだ。荒野でなら間違いなくザッパーに勝てた。たとえザッパーが十体いたとしても。しかし、近隣に村が……まして、あのパルス村がある限り、ナハトは死んでも力を解放して切り札を放つことはない。
 ナハトはふいに飛び退った。
 足元に矢が突き刺さる。岩をも貫く魔力を込められた矢だ。矢は一本で止むはずもなく、雨のように濃霧の中を突き抜けてナハトを襲う。
 ナハトは回避しながらザッパーや敵の気配を探った。
 ザッパーの気配をみつける。死中に活を求めていたナハトは咆哮を上げた。
 突進しようとした瞬間、頭に声が響いた。
《罠です!》
 きょうさんざん聞かされた声。スイの声だ。
《狼殿、敵は罠にはめるつもりです。ザッパーさんというのは囮です》
 突進をやめ、身を翻してザッパーから距離をとった。
《ザッパーが囮、まさか……。……そもそも、なぜそんなことがわかる?》
《……だって……聞こえましたし…………人が寝ているのに、ぶつぶつと……》
 ナハトは総毛立った。
《聞こえた……だと?》
《はい》
 ナハトは押し黙った。魔法の素養があるため、わりと事態を冷静に受け止めることができた。そして、この事実がどれほど驚くべきものか思い至る。
 魔物の言葉による会話は人間の会話と同じく、離れていれば聞こえにくいし、小声なら一層聞きにくい。同じ森にいるナハトに聞こえなかった声を、村で寝ていたスイが聞いたというのは、にわかには信じられない。しかし、嘘を吐くような人間でないことは知っていた。
 ザッパーとその仲間達にしても、まさか自分達の会話が筒抜けだなんて考えもしないだろう。
 ――そしてさらに驚くべき事実があった。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。