第2話
さすがにスイの足が止まった。なんとか恐怖を口の中に溜まった唾と一緒に飲み込むと、黒い狼に向かってもう一度歩き出した。
黒い狼はよほど大きな傷を負っているのか身動きひとつしない。
スイはデジャビュを覚えた。以前にも同じようなことがあった気がする。子供の頃に出会った子供の狼とこの狼を比べているのに気づいてちょっとだけ笑った。あまりにもその姿はかけ離れすぎている。子供の狼は小さな女の子が無邪気に拾ってしまうほど可愛らしい愛玩犬のようだった。対してこの目の前にいる狼は大の男達でも逃げだすだろう。こんなにもかけ離れているのにデジャビュを覚えたことに小さく笑ったのだ。
スイが笑った瞬間、苦痛の呻きを漏らしていた黒い狼がふいに目を開いた。
紅玉のような一対の紅い目。
その紅い目を見て、スイは唖然とした。
まさか以前拾った狼と同じ狼だとは思わなかったが、ここまで偶然が重なると驚きを通り越して呆然としてしまった。
しかし、黒い狼が苦しそうな呻きを漏らしたので、スイは我に返った。もうためらったりしなかった。駆け寄ろうとすると、黒い狼が起き上がろうとするそぶりを見せた。
立ち止まるスイ。
スイは魔物と話せるが魔法が使えるわけではない。その辺はごく普通の女の子なのだ。黒い狼からすこし離れた位置に立ち、魔物の言葉で話しかけた。
魔物の言葉で会話する時に起きる不快な衣擦れのような雑音はほとんど感じられなかった。
《あの……こんにちは》
細く目を開けて、スイを見ていた狼は目を見開いた。
《…………お前、何者だ》
狼が威嚇するように牙をのぞかせた。吠えこそしなかったが、唸り声を上げた。
スイは後退った。その顔は不思議そうだ。スイの姿はどっからどう見ても人間の娘だ。わざわざ聞く必要はないだろうと思ったのだ。それにもし人間でないとしたら魔物でしかない。魔物ならこの黒い狼の仲間なのだから警戒する必要などない。いくつか疑問が浮かんだが、スイはすぐに魔物の言葉で返事した。狼を刺激しないよう慎重に正直に。
《あたしは、……ウィスです》
スイは《ウィス》だと名乗ることに抵抗があった。さんざんそのことで周囲の大人や子供たちに心ないことを言われ続けてきたのだ。
《そうか……ウィスだったか……》
黒い狼はスイが拍子抜けするほど簡単に相づちを打った。
スイは思わず、相手が魔物の巨大な狼だということも忘れて強く聞き返していた。
《ウィスですよ?》
《ん? それがどうした……?》
《そ、それが…………》
言葉が続かない。悩みの大部分を占めている大問題を「それがどうした?」呼ばわりされるとは思ってもみなかった。
黒い狼が思ったよりも気性が激しくないことに気づくと、おそるおそる黒い狼のそばににじり寄った。以前友達になった魔物の黒い狼の子供は頭をなでられると喜んだことを思い出したのだ。黒い狼の頭に手を伸ばそうとして、その前に聞いた。
《噛みますか?》
《噛まん》
憮然とした調子で、黒い狼は答えた。
黒い狼の大きな頭をなでる。黒い毛は艶やかで美しく、なで心地がよかった。固い桶とは違って、その黒い狼の体は温かく柔らかい。
(この狼さんと仲良くなりたい)
ふいにそう思った。この恐そうな外見だが紳士的な魔物の狼と仲良くなったら、きっととっても楽しい。もし友達になれたらあの事件以来はじめての友達だ。
《傷の手当てしてもいいですか?》
《必要ない》
《狼さん、ご遠慮なさらずに……》
黒い狼は不愉快そうに顔を歪めて、前脚をスイの前に出した。
ちょっとだけびっくりしたが、黒い狼の前脚の根元に大きな引っかき傷があることに気づいて、スイは声を上げた。
《ち、治療……》
《黙ってろ》
つっけんどんに黒い狼は言った。
さっきまでのどこかよそよそしい紳士的な口調とは打って変わって、スイが村の中で聞く若者たちの言葉のようなくだけた口調だった。この時もしかしたらこの黒い狼は自分とそう年が変わらないのではないかとスイは思った。
黒い狼の突きだした前脚が淡い光に包まれる。無数の蛍がまっすぐに空に向かって飛んでいくように淡い光が流れている。
スイは自分の腰くらいの高さまで立ち上っている淡い光を見ていた。
そして黒い狼の傷口を見て驚いた。
狼の前脚の傷がきれいに治っている。
《す、すごい……!》
魔物には不思議な力があるものもいると聞いていたが見たのは初めてだった。
《……わかっただろ。……ッ。さっさと帰れ!》
黒い狼は毅然と言う。
しかし確かに聞いた。黒い狼は自分の傷を癒したものの、押し殺しきれない苦痛の呻きを漏らしたことを。
《なにか、隠してますね》
スイは険しい目をして黒い狼を見た。
《関係な……》
《あります!》
スイはずいっと顔を黒い狼に寄せた。
スイの三倍はある黒い狼が、身を引くほど、スイには迫力があった。
《……だって……聞こえるんです》
その真摯な言葉とスイの泣き出す一歩手前の顔をみて、黒い狼はあわてたように言った。
《待て! 泣くな! 人間のガキだけは苦手なんだ!》
黒い巨大な狼は何か小さい頃にトラウマでもあるかのようにあわてて叫んだ。ただ単に女に泣かれるのが苦手なだけなのかもしれないが、どちらにしろ変わった魔物といってよかった。
黒い狼はよほど大きな傷を負っているのか身動きひとつしない。
スイはデジャビュを覚えた。以前にも同じようなことがあった気がする。子供の頃に出会った子供の狼とこの狼を比べているのに気づいてちょっとだけ笑った。あまりにもその姿はかけ離れすぎている。子供の狼は小さな女の子が無邪気に拾ってしまうほど可愛らしい愛玩犬のようだった。対してこの目の前にいる狼は大の男達でも逃げだすだろう。こんなにもかけ離れているのにデジャビュを覚えたことに小さく笑ったのだ。
スイが笑った瞬間、苦痛の呻きを漏らしていた黒い狼がふいに目を開いた。
紅玉のような一対の紅い目。
その紅い目を見て、スイは唖然とした。
まさか以前拾った狼と同じ狼だとは思わなかったが、ここまで偶然が重なると驚きを通り越して呆然としてしまった。
しかし、黒い狼が苦しそうな呻きを漏らしたので、スイは我に返った。もうためらったりしなかった。駆け寄ろうとすると、黒い狼が起き上がろうとするそぶりを見せた。
立ち止まるスイ。
スイは魔物と話せるが魔法が使えるわけではない。その辺はごく普通の女の子なのだ。黒い狼からすこし離れた位置に立ち、魔物の言葉で話しかけた。
魔物の言葉で会話する時に起きる不快な衣擦れのような雑音はほとんど感じられなかった。
《あの……こんにちは》
細く目を開けて、スイを見ていた狼は目を見開いた。
《…………お前、何者だ》
狼が威嚇するように牙をのぞかせた。吠えこそしなかったが、唸り声を上げた。
スイは後退った。その顔は不思議そうだ。スイの姿はどっからどう見ても人間の娘だ。わざわざ聞く必要はないだろうと思ったのだ。それにもし人間でないとしたら魔物でしかない。魔物ならこの黒い狼の仲間なのだから警戒する必要などない。いくつか疑問が浮かんだが、スイはすぐに魔物の言葉で返事した。狼を刺激しないよう慎重に正直に。
《あたしは、……ウィスです》
スイは《ウィス》だと名乗ることに抵抗があった。さんざんそのことで周囲の大人や子供たちに心ないことを言われ続けてきたのだ。
《そうか……ウィスだったか……》
黒い狼はスイが拍子抜けするほど簡単に相づちを打った。
スイは思わず、相手が魔物の巨大な狼だということも忘れて強く聞き返していた。
《ウィスですよ?》
《ん? それがどうした……?》
《そ、それが…………》
言葉が続かない。悩みの大部分を占めている大問題を「それがどうした?」呼ばわりされるとは思ってもみなかった。
黒い狼が思ったよりも気性が激しくないことに気づくと、おそるおそる黒い狼のそばににじり寄った。以前友達になった魔物の黒い狼の子供は頭をなでられると喜んだことを思い出したのだ。黒い狼の頭に手を伸ばそうとして、その前に聞いた。
《噛みますか?》
《噛まん》
憮然とした調子で、黒い狼は答えた。
黒い狼の大きな頭をなでる。黒い毛は艶やかで美しく、なで心地がよかった。固い桶とは違って、その黒い狼の体は温かく柔らかい。
(この狼さんと仲良くなりたい)
ふいにそう思った。この恐そうな外見だが紳士的な魔物の狼と仲良くなったら、きっととっても楽しい。もし友達になれたらあの事件以来はじめての友達だ。
《傷の手当てしてもいいですか?》
《必要ない》
《狼さん、ご遠慮なさらずに……》
黒い狼は不愉快そうに顔を歪めて、前脚をスイの前に出した。
ちょっとだけびっくりしたが、黒い狼の前脚の根元に大きな引っかき傷があることに気づいて、スイは声を上げた。
《ち、治療……》
《黙ってろ》
つっけんどんに黒い狼は言った。
さっきまでのどこかよそよそしい紳士的な口調とは打って変わって、スイが村の中で聞く若者たちの言葉のようなくだけた口調だった。この時もしかしたらこの黒い狼は自分とそう年が変わらないのではないかとスイは思った。
黒い狼の突きだした前脚が淡い光に包まれる。無数の蛍がまっすぐに空に向かって飛んでいくように淡い光が流れている。
スイは自分の腰くらいの高さまで立ち上っている淡い光を見ていた。
そして黒い狼の傷口を見て驚いた。
狼の前脚の傷がきれいに治っている。
《す、すごい……!》
魔物には不思議な力があるものもいると聞いていたが見たのは初めてだった。
《……わかっただろ。……ッ。さっさと帰れ!》
黒い狼は毅然と言う。
しかし確かに聞いた。黒い狼は自分の傷を癒したものの、押し殺しきれない苦痛の呻きを漏らしたことを。
《なにか、隠してますね》
スイは険しい目をして黒い狼を見た。
《関係な……》
《あります!》
スイはずいっと顔を黒い狼に寄せた。
スイの三倍はある黒い狼が、身を引くほど、スイには迫力があった。
《……だって……聞こえるんです》
その真摯な言葉とスイの泣き出す一歩手前の顔をみて、黒い狼はあわてたように言った。
《待て! 泣くな! 人間のガキだけは苦手なんだ!》
黒い巨大な狼は何か小さい頃にトラウマでもあるかのようにあわてて叫んだ。ただ単に女に泣かれるのが苦手なだけなのかもしれないが、どちらにしろ変わった魔物といってよかった。
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