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希死念慮がこぼれた夜に

ジャンル: ホラー 作者: 中田祐三
目次

希死念慮がこぼれた夜に

 その日、それはこぼれた。 

頭の中から、心の中からポタリと垂れたのだ。

 憂鬱と慢性的の疲労感で疲れきった身体に活力が戻ると起き上がり、ズボンを履いて、シャツを着た。 

 そして部屋を出る前に一度だけ振り返る。

 そして何も言わずに自室を見渡した後に旅に出た。

 もう戻ることは無い終焉の旅。

 そう…死に向かって。


 
 車は関越道を走る。

 夕方に降り始めた雨は明日に辿りついたこの時間にはとっくに止んでいた。

 窓を開けると、心地よい湿気とアスファルトの濡れた香りが鼻腔を刺激する。

 助手座席には前回か、前々回かはたまたそれよりも前に用意していたロープが置いてある。

 ときたまそれの表面を子供でも撫でるように撫でながら、この道のりの先を自分は思案していた。

 方法は決まった。 

正直電車に飛び込むか、それとも包丁で腹を切るかとは悩んでいたが、電車は始発までまだ時間があること、包丁は前にした時にはあまりの痛さで諦めていたことを思い出したので止めた。

 やはり首吊りだ。 

縄で輪っかを作ってピョンと飛び降りればもはや逃げることなど出来ない。
 
 いやヒョンだろうか? それともジャンプ!の方がいいだろうか?

 まあ、そんあことはどうでもいいか。

 首吊りはうまくやれれば首の骨が折れて即死出来るそうだ。

 願わくばそれくらい上手くいけばいいのだが、そう世の中は都合よくはいかないものだろう。

 自分はそれをよく知っているのだから…。 

 車は埼玉の県境を越えて群馬県へと入りこむ。 

 関越道を走る車はまばらで最後のドライブはゆったりと走れた。

 その幸先の良さに笑みがこぼれる。 

 そういえば最後に笑ったのはいつだろうか?
 
 この最後の日になって笑えることが出来るなんて自分はなんて幸せなのだろう。

 ああ、そう思えたことも何年ぶりだろうか?

 終りに向き合えば全てが美しく見えるらしい。

 果たしてそうなのだろうかと考えていたが、車に充満するこの空気、僅かに瞬く星と道の先を照らす街灯、そしてその光りを僅かに反射してキラキラと光る灰色の高速道路。

 全てが綺麗だ。 美しい。 

 この感情は故郷を後にする若者が抱く郷愁というものだろうか? 

 それとも感傷だろうか?

 大いなる希望という水面の上にポタリと垂れてその表面で滲む僅かな寂しさという言葉が頭に浮かんだ。

 いずれにしても今日、自分は旅立つのだから。

 ああ、あんなにも煩わしく思えた世界が自分という存在を初めて祝福してくれるように思える。

 すでに周囲の景色は街中を越えて、鬱蒼と茂った木々で満ちた山となった。

 ふと見上げると緑色の看板に白文字で『赤城IC』という表記が目に入った。

 もうここでいいか。 

 まるで腹を空かして適当な店に決めるかのような気安さで終りの地を決める。

  

 無人のETCを越えればすぐに世界は鬱蒼とした樹木に囲まれた。

 もはやこの世を照らす光りはこの狭い道の上では自分の車のヘッドライトだけで、心細げに進む道の一部だけを切り裂く。

 やがて終りに到達した。 いや決めたというべきだろうか。

 長くささやかな上り道を進んだ先には駐車場がある。

 道はまだ続いているが、ここから先は下り道でその先を進めば山の反対側の麓に下りていく。

 幸いなことに駐車場には誰もいない。 

 車を駐車場の真ん中に止めて窓を開ければ、街中とは違う濃密な山の香りが身体の中に入ってきた。

 ヒンヤリと、でも嗅ぎなれない青臭さと夜の香りが混ざったそれは疲れきった心を落ち着かせてくれた。

 おっといつまでもそうしてるわけにはいかない。

 エンジンを止め、ロープを持って降り立つ。

 雲間から見える月は寂しげで儚くも、でも確実に俺と世界を照らしてくれている。

 頑張れと優しく鼓舞されているような気がした。 

 そうだここまで来た以上、失敗するわけにはいかない。 

いままで失敗と羞恥と後悔に塗れた人生だった。

 けれどとうとうそれを終わらせる日が来たのだ。

 ああ、この気持ちをどう言えばいいのだろう?

 待ちに待った日が来たような、あるいは重い荷物をやっと降ろせるような…なにかスッキリとした希望に満ち溢れている。

 右手でロープを掴む右手に力が入る。 

久しくグニャグニャとしていた身体に一本の芯が入ったように力がこみ上げてくる。

 やっとだ…ようやく、今日俺はこのクソッたれな人生を終わらせることが出来るのだ。

 そう思いつつも噛み締めるように月明りの中を少し歩く。

 木々の間からはふもとの街の夜景が美しく光っていた。
 
 最後にこの景色を焼き付けておこう。

 それくらいのことは許してもらえるだろう。
  
 誰に? わからない。

 ただ往生際が悪いとは違う。 

まるで挨拶するように、別れを告げるようにただボウッとその光りを見続けていた。

 さてと少しだけ名残惜しいがそろそろ旅立つとしよう。 

この胸の中の希死念慮が空になってしまう前に。

 見据えた先にはトイレがあった。

 木にブラブラとぶら下がっているのもいいが、枝が折れて失敗してしまっては元もこうも無い。

 前に物干し竿を二本重ねてベルトでそうしようとしたが、あっさりと曲がって失敗してしまったことを思い出した。

 そっとそのときの痛みを思い出して首筋に手を当てる。

 やはり物干し竿では耐久性に問題があった。

 やはり建物を支えるような太い物でないと人間一人を支えるには足りないのだ。

 外側からチラリと見えた天井に連なっているその梁は自分の細っこい腕と比べれば二周り以上太くて逞しい。

 ああ、これならば…。

 これなら大丈夫だ。

 きっと自分が全体重をかけてもビクともしないで吊り下げてくれるだろう。

 ふと小さい頃に手だけで持ち上げてくれた父の姿を思い出す。

 ゆっくりと最後の十数歩を進もうとしたところでとんでもないことに気づいてしまった。

 駐車場の奥に拵えたトイレ。 その影に隠れるように一台の車が止まっていることに気づいたのだ。

 チッ、なんだよ。

 舌打ちの音が夜に響く。

 なんてことだ。 まさかこんな田舎の山奥に誰かいるなんて…。

 どうしてこうもタイミングが悪いのだろう。 

 暗闇に慣れてきたことで遠目からさりげなく車内を覗き込むが人の気配はしない。

 仮眠でもしているのかとも思ったが、運転席も助手席のシートは倒れておらず、ピンと真っ直ぐに屹立している。

 それではトイレにいるのだろうか?

 近づいても何も音はしない。 

ただ虫の鳴き声と風が木々を揺らす音だけが聞こえるだけだ。

 いや、僅かに音が奥からする。 靴底が床に擦れる音だろうか?

 ギッ、キシッ。 ギッ、キシッ。 と一定感覚で聞こえる。

 車に戻り、少し考えこむ。

 一番避けたいのは中途半端なところで見つかってしまうことだ。

 それで生き残ってしまうなんて愚にもつかない。

 首を吊ってからおよそ30分。 それが助かるか助からないかの瀬戸際らしいということを聞いたことがある。

 だからこそ家族に見つけられないように自宅ではなく外で死のうとしたというのにまさかこんなことになってしまうなんて…。

 他を探すにしても、せっかく決めたのに今更動くのも正直に言って癪ではある。

 第一、なんだって自分の大事な時にあの車の持ち主はこんなところに居るんだ!少しは人の迷惑を考えるべきじゃないか!

 自分の行動を棚に上げて理不尽な苛立ちさえ浮かびあがってくる。

 だがそれも仕方ない。 個室の『彼』か『彼女』が用を足してここから去るまで少し待つとしよう。 

 幸いなことに自分には残りの時間は短いが、それは自身で自由に終わらせることが出来るのだから。

 ならばいま少し待つことに何の問題も無いじゃないか。

 そう納得して、少しだけ運転席のシートを倒して雲間から見え隠れする月を探すことにした。

  
 
 夜空は相変わらずの曇り空、そこから何度月を間から見上げていただろう?

 時間にして約一時間。 そうしている今でさえ、車の主は出てこない。

 いくらなんでも長すぎだ。

 これはもしかしたらあの入り口で聞いた妙な音は自分の気のせいだったかあるいは別の音を聞き間違えていたんじゃないだろうか?

「クックック」

 くぐもった笑いがこみ上げる。 

 これから自ら命を絶とうというのにこの状況がたまならくおかしく思えてくる。

 と同時に今までの人生を象徴しているような間抜けな男じゃないか。

 人生の最後に自らをあらためて突きつけられた出来事にもう笑うしかなかった。

 でもそれは不快じゃなかった。 悲しくもなかった。 

 ただそうなのだと。 自分は自分でしかなかったのだと気づけた。

 悪い気分じゃない。 

「よし、行くか…」

 小気味良く車を降りて、ほどよく抜いた力でドアを閉める。

 片手には勿論チケット代わりのロープ、そして足取りは軽やかに。

 不思議に気分は高揚していた。 先程とは違う程よく力の抜けた高揚さだ。

 風は変わらず緩やかで、木々のざわめきも変わらない。 

 半分切れかかった電灯で照らされたトイレの中はアンモニアと夜の香りが混じっていた。

 そっと耳を澄ます。

 音はやはり聞こえていた。 あの何かがぶつかるような擦れるようなあの音が。

 ギッ、ギシッ。 ギッ、ギシッ。 という音が。

 音の場所はやはりトイレの中で聞こえている。 奥から二番目の個室の扉から。

 そっとノブを回す。 扉にはカギが掛かっていない。

 ああ、やっぱりここは無人だったのだ。 

おそらくはあの車の持ち主は友人なり恋人なりのもう一台の車に乗ってどこかに行っていたのだろう。

 まったく時間を無駄にした…いや最後の最後になってこんな気持ちになれたのだから感謝すべきだろう。

 もっともお礼を言うことは出来ないだろうが。

 ありがとう。 

 どこの誰かも知らない相手に感謝するように扉を引いた。

 だがやはりそこには先客が居た。

 ブルーのジーンズに片足だけサンダルを履いたその先客はつま先を空中に浮かせ、舌をベロリと垂れ流したままわずかに揺れている。

 入り口から入り込んでくる風が内部を通って窓から出て行くついでに『先客』を揺らしていたのだ。

 未練深げに残ったサンダルの先端が揺れるたびに扉の内側にぶつかってあの音を奏でていて、いまは浮いた足先は出て行けというように俺のみぞおちにコツンとぶつかった。

 しばし『先客』を見上げながら大きく溜息をつく。

 なんてこった。 先を越されてしまった。 ここは使用中だったのだ。

 落胆する俺の溜息に押されるように足先が一際ゆっくりと揺れていた。

 無言で扉を閉めて、トイレから出て行く。

 後ろからはあのギッ、ギシっという音がまた聞こえてきていた。

 そしてそのまま駐車場を出て帰路につく。 彼と同じように無言で。

 彼はうまく死んだことで。 自分は死に損なってしまった落胆によって。




「はあ~、なるほどね、それってお前がそいつに呼ばれたってことなのかな」

 日曜日の午後。 友人がそう言いながらカップに注いだスープに口を付けつつそんなことを言う。

「いや…どちらかといえば向こうの方が先にゴールされちまったっていうのが近いかも」

 しみじみと言う俺に友人は「ふ~ん、そんなもんかね~」と興味無さげにまた一口スープをすすった。

 あの自分よりも先に『行って』しまった彼の正体はすぐにわかった。

 地元の地方新聞の片隅に別れ話のもつれで恋人を殺してしまった男が自殺したという小さな記事で。

 一人の人間のちっぽけな死はそれと比例するように数行の事件記事で写真すら載らずにひっそりと報道されただけだった。

 明日どころか、当事者以外では数分で忘れてしまうほどの小さな出来事として彼の死は忘れ去られていくのだろう。

 それを羨ましくもあり、先を越されたという筋違いの憤りを飲み込むように俺は水を飲み干す。

 あれから俺はまだ生きている。 
 
 窓際の席のここでは天頂に上った日の光りが俺たちを照らす。

それでもキラキラと輝いているように見えたあの夜よりも薄いもやに包まれて世界は薄暗く見える。

「それでしばらくは大丈夫そうなのか?」

「わからないな、ただしばらくは『行け』そうには思えないよ」

 問いかけに答えると友人「…そうか」とだけ言って黙り込んだ。

 俺はただ窓から見える世界をボンヤリと眺めている。
 
 でもいずれそのときは来るだろう。

 満面に溜め込まれたそれがコップの縁から溢れこぼれた時に。

 それまではこうやって何者でもなく、その他大勢の中の誰かとして順番を待っているのだ。

 そう、希死念慮がまたこぼれてくれる日まで。
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